葬儀
亡くなった叔母は、僕の父のすぐ下の妹で、叔父、叔母の中で一番の年上だ。
学生時代に、山形を離れ、東京の大学にいた僕は、この叔母が淵野辺に住んでいたため、よく、お邪魔した。
大学は、1年、2年と八王子にあったこともあり、横浜線で、お金がなくなると、食べるものがなくなると、お邪魔したものだ。
叔母は気前のいい人で、電話をすると、すぐ、なにもないけどいらっしゃいと快く、泊めてくれた。
僕が持っていくものは、汚れた洗濯物の山。それを、洗濯してくれて、しっかりとご飯を食べさせてくれる。時々、おこづかいまでもらっていた。
大学時代には、かかせない叔母だった。
その叔母も91歳になって、入院して1週間で、残った家族に別れを告げて、天国に行ってしまった。
なんと、いさぎよい、彼女らしい、生き様だ。
僕の父によく似た性格の叔母は、何事にも、決して惑わされず、自分の道を歩く人だった。
ただ、助けてもらった、学生時代だけを思い出すのではなく、親戚たちの意見の取りまとめなどを行う、いわゆる、ボスだった。そんな、彼女を思い出す。
そんな叔母も、91歳の年まで、長生きして、それでいて、寝たきりにもならず、すばらしい人生を送ったと思う。
そんな、叔母を送る儀式は、実に、近代的だ。葬儀場は、斎場の隣にあり、葬儀が終わると、斎場に移された。
斎場にて荼毘に伏されている間に、会食があり、お骨を拾って、葬儀のすべては終わった。
荼毘の間の1時間20分の間に、お礼のお酒が振舞われてしまう。その後、すでに集骨された、お骨を骨壷に入れる作業が残っているだけだ。
今年4月に出来たばかりのこの葬儀場も、叔母が生きているうちに気にいって、決めていたものだそうだ。
なんとも、叔母の生き方を感じる。そう、そんな、叔母だった。
斎場の1階に、ピアノがあった。
人が近づくと、自動演奏された。鍵盤が勝手に動いて、静かな、落ち着いた曲が流れた。
さすがの叔母も、こんなピアノが設置されていることは、知らなかっただろう。
近づくと、ピアノの音色がして、きっと驚いているにちがいない。
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